☆プロローグ
「どうかした? 里奈」
「え?」
明るい紀江の声で、里奈はいきなり現実に戻された。
優子が父のことを話したせいで、亡くなった自分の父のことを思わず考えてしまっていたのである。
「――ったく、里奈ったら、ボーッとしちゃってさ」
洋子が云う。
「あたしたち四人のなかでも、里奈がいちばん可愛いってのに、彼氏ができない原因はそれやね」
「…………」
いきなりそう指摘されて、里奈は動揺する。
「それやね、って」
「ボーッ、と何か考え事したり……どうせ、何か自分の世界にひたってたんやろ? あんたが夢見るような、王子さま、お姫さまの世界なんて、この世には存在せんの。いい加減、目、覚まさないけんよ」
「…………」
「嵐の二ノ宮クンが好き、なんていつまでも云ってないで、現実の男、探さないけん」
「そうそう」
優子は、大げさにうなづいた。
「何せ、里奈のところは母子家庭やろ。はよ、現実の男見つけて結婚でもせんと。お母さん、いつまでも安心できんよ」
「――うん……」
里奈は、思わずうつむいた。
為を思って云ってくれているのだ、と思っても、友人たちの言葉は里奈を傷つける。
里奈の父は、里奈が中2のときに、癌で亡くなった。
とても優しい父だった。
死んだときは、本当に悲しくて、ずっと泣き明かした。
そして、残ったのは男好きで淫乱なあの母だ。
「あ~、でも、男ってのも案外ウザいけどねぇ」
紀江が云う。
彼女も、男好きで、とっかえひっかえ男を変えている。男と寝た経験も、実は何度かあるらしい。処女で清純なタイプの里奈には考えられない話だ。
「イヤになって別れようとしたら、ビンタ張られたりしたんよ、実は。レイプされそうになったこともあるしね」
「へえ……」
「とにかく、男っていうのは、あんまり気弱なのも物足りんけど、あんまり強引で暴力的なのも困るし……なかなか難しい生き物なんよね」
「ふーん、経験者は語る、やね」
優子は、そう云って笑っている。
彼女は、私立の短大に推薦で入ることが出来た。
優子の父親は公務員だから、そこそこお金もあるのだろう。
里奈にとっては、羨ましい限りだ。
それからもう一人、結婚よりキャリアウーマンとして生きていきたい、というのが夢の洋子が云った。
「あたしは、夢が公認会計士、やから、その為に皆と同じ商業高校出たんやしね。でも、皆、学生時代と変わってないねぇ。こうやって久々に会ってみても……社会に出た人もおるのに、あんまり変わらんね、里奈も」
「――うん……」
「ゆうせん放送のリクエスト係やったね、里奈は。楽しい?」
「うん、けっこう……」
そう云ってみても、元気のない様子は、すぐに皆に分かってしまうだろう。
里奈は、自分がもう、職場を辞めたいと思っていることなど、とても皆には云える雰囲気ではない、と内心ため息をついた。
第一章 里奈、社会に出て(1)
「ったく、このメモ書きはここに貼っといて、って、云ったやろ? いつになったら覚えるのかねぇ」
先輩女子社員の坂本が、ぐちぐちと文句を云う。
里奈が所属になった北九州折尾の放送所は、里奈が夢見ていたのとはまったく違い、小さなひと部屋に三台分のCDなどをかけるスペースがあるだけの、こじんまりとしたところだった。
まったく華やかではないし、同期の新入社員もいない。
しかも、昼間はほとんど、このガラス張りの部屋のなかで、文句ばかり云うこの坂本とずっと二人だけだ。
「――すみません」
そう謝ってはみるものの、内心ため息をつかざるを得ない。
研修のときから、里奈の指導にあたっている坂本は、太って、醜い顔の女だった。
ときどき、機械の取りつけ工事担当の男子社員と楽しそうに話していることがあるが、おそらく、男のほうはその気ではない。
そのことも手伝ってか、自分より容姿のよい里奈に不満の矛先を向けているのが、
はっきりと見てとれた。
「そうじゃない、って、云ってるやろ!」
「…………」
レコードの扱い方がわるい、と文句を云う。
「――すみません」
里奈は、また素直に謝る。
しかし、いつまでこんな苦痛がつづくのか、と思うと、本当に、精神的に参ってしまいそうだった。
しかも、事務担当の女子社員、岡谷も、里奈のことをイジメている。
「お弁当、持ってきた? パンとかは、買いに行く暇はないからね」
初めて放送所に来たとき、そう云われた。
それ以来、里奈は、どんなに眠くても六時頃には起きて、弁当をつくるようにしている。
「このCDは、ちゃんと拭いといて、って、あれほど云ったのに!」
重箱の隅をつつくような文句を云う。
「ったく、こう失敗がつづくようじゃ、所長に云うしかないね」
「――すみません」
里奈は、また謝った。
この放送所の所長、というのは、案外若い男だった。里奈には優しいが、何となくねばっこい眼で里奈を見ていたような気がする。
性欲を抑えたような眼である、と、里奈は思った。
「そのCDは、そこじゃないやろ!」
「すみません……」
泣きたいのをこらえながら、里奈は、レコードを廻しつづけた。
第一章 里奈、社会に出て(2)
この放送所の所長、黒沢という男は、初めに里奈を見たときから里奈のことが気に入っているようだった。
里奈をこの放送所に雇ったのも、黒沢の決断のようだった。
おそらく、里奈の愛らしい容姿が気に入ったのだろうが、仕事が出来るかどうか、とは関係ない。
里奈をイジメる坂本や岡谷も、そういう黒沢の思いに気づいていて、そのことも里奈への態度に拍車をかけているような感じがした。
黒沢は、里奈が一人で土曜勤務をしているとき、用事もなさそうなのに里奈のいる放送室にやってくることがあった。
その日、里奈がトイレに行って戻って来たときも、いつのまにか、黒沢が放送室のなかへ入り込んでいた。
「トイレ、長かったね」
里奈の代わりに、CDをプレーヤーの上に載せながら黒沢が云った。
「今日は生理かい?」
なんとなく、イヤらしい笑みを浮かべている。
「いえ……」
里奈は、グッと眉をしかめた。
「もう、仕事には慣れた?」
「はい、大分。先輩が教えてくれますから」
「そうか、それは良かったね」
「…………」
しばらく、沈黙が流れた。
「だけどね、坂本クンは、あまりキミが仕事ができない、と訴えてきたんだよ。どっちが本当なのかな? キミがミスばかりして、坂本クンに迷惑をかけるなら、ぼくも上のほうに申告をせないけない。その点、どうなのかね?」
「…………」
「これを、見てごらん」
そう云って渡されたのは、所長に報告をするための業務用ノートだった。
見てみると、そこには、里奈の悪口のようなことが、延々と書きつらねてあった。
おそらく、坂本が書いたのだろう。
「私……」
里奈は、口ごもった。
「キミは、先輩の云う事をまったく聞かずに、同じようなミスを繰り返す、と書いてある。キミは、そんなに覚えがわるいのかね。それとも、わざと?」
「ち、違います!」
里奈は、訴えた。
「酷いのは、ハッキリ云って、坂本さんのほうです。私は、仕事は一生懸命やっています。確かに、抜けてるところもあるかもしれないけど、でも、そんな、わざとだなんて……」
「そうだよね、キミがそんな性悪な子だとは、ぼくは思わない」
黒沢は、だんだん里奈に顔を近づけてきた。
「キミは、本当に可愛いからね。――キミみたいに可愛い子が、そんなワルなわけはないよね」
「…………」
「ぼくも、いろいろ考えたんだ」
黒沢は云った。
「キミが一生懸命仕事しているのは分かっているよ。でも、キミは、もしかしたらこういう仕事に向いてないのじゃないかな?」
「…………」
「キミは、大人しい性格のようだから、事務とか、他の仕事のほうが、あっているかもしれないね」
「…………」
「どうかな? ぼくに任せてみては。これでも、ぼくはこのゆうせん放送社のなかでは力があるんだよ。社長は、ぼくの叔父にあたるヒトでね。ぼくには甘いんだよ」
「…………」
「キミが、もし、いいというのなら――」
彼は、妙な笑みを浮かべた。
「――ぼくの一存で、キミのこれからのことが決まるかもしれないよ。それも、キミの態度しだいだ……」
黒沢の手が、里奈の頬を撫でた。
里奈は、身震いした。
「や、やめてください……!」
思わず、里奈は叫んだ。
「私の態度しだいって、どういうことですか? 私に、何をしろって云うんですか。こんなのセクハラじゃないですか!」
「…………」
「出ていってください。お願いします……!」
「…………」
黒沢は、唇を奇妙な形にまげた。
「そうか……、そういうことを云うんやな」
彼は、次第に怒りの表情を露わにした。
「せっかく、採用してやったのに。――その恩も忘れて、そんなふうに云うんやな。
可愛がってやろう、と思ったのに。分かった、邪魔したな……」
黒沢は、そう捨て台詞を吐くと出て云った。
重苦しい気分で、里奈はそれを見送った。

